ジャパンカップ:歴史①
1970年後半に「世界に通用する強い馬づくり」が提唱され[1]海外の調教馬を招待して第1回ジャパンカップを開催する計画も持ち上がっていたが、時期尚早ということであえなく立ち消えになった経緯がある。当時の日本最強馬といわれたスピードシンボリが高齢になりながらも現役を続行したのはそれまでの海外遠征で負け続けた分、このジャパンカップで海外の馬を負かしたいという陣営の思惑が色濃く残っていたためだった。
1981年に記念すべき第1回は開催された。優勝賞金は6500万円で天皇賞、有馬記念と同額。新設重賞としては破格の金額である。北アメリカとアジアから招待馬が選出されアメリカ、カナダ、インド、トルコ(来日後に故障し不出走)から出走馬が招待された。「日本の馬が外国の馬と対戦するレースが見たい」という第1回だったが、日本馬はサクラシンゲキが大逃げでスタンド(客席)を沸かせるも(後に同馬は「日の丸特攻隊」と呼ばれるようになる)ゴールドスペンサーの5着が最高だった。フジテレビで実況を担当した盛山毅アナウンサーは、日本の一流所が海外(ヨーロッパ除く)の決して一流とは言えない面々相手に日本勢が惨敗した様子を見て、「日本は完全に敗れました!!」と叫びしばし絶句。海外とのレベルの差を痛感する結果となる。
翌年からは招待範囲がヨーロッパ、オセアニアにも広げられ参加国の多さから「世界一の競走」、「競馬のオリンピック」と評されることもあった[1]。さらにその翌年(1983年)からは地方競馬の所属馬も招待対象に加えられた。その後も日本代表馬がことごとく敗れるばかりで、海外との差を痛感するレースにもなった。しかし第3回の1983年になってキョウエイプロミスが2着と好走を見せた。
1984年にはJRAのグレード制導入によりGIに格付けされた。この年、前哨戦の天皇賞(秋)を快勝したミスターシービーと菊花賞を無敗で制したシンボリルドルフの新旧三冠馬2頭が参戦、日本勢初優勝の期待を大いに集めた。しかし、日本馬の初優勝という褒章を得たのは単勝10番人気と期待の薄かったカツラギエースであった。1992年には国際セリ名簿基準委員会(ICSC)により国際GIに指定されている。略称はJC(JはJAPAN、CはCUPのそれぞれの頭文字)。
1999年に成立したワールドレーシング・チャンピオンシップに初年度から加えられており、この年以降にほとんど馬産の行われていない香港、アラブ首長国連邦からも招待馬の選出がされている。また2000年から2006年までは外国馬がこの競走で優勝した場合に限り有馬記念の出走資格が与えられるようになった(2002年のファルブラヴと2005年のアルカセットが該当)が、行使した外国馬はいなかった。
2008年からジャパン・オータムインターナショナルシリーズに指定される。
2008年4月24日、フランスギャロ(フランス競馬統括団体)により凱旋門賞の1・2着馬がジャパンカップに優先招待されることが決まったと発表された。また、その他に3レースが同様の指定を受けている(後述)。